ドストエフスキーは今日の道徳的頽廃(たいはい)を予見していた

これから教育のことを論ずるわけであるが、それにはまずオウム事件を分析する必要がある。この事件が起こった時に、ドストエフスキーの「悪霊」という小説のことを思い出したのである。そして改めてこの「悪霊」という小説を読み直した。「悪霊」は数あるドストエフスキーの作品のなかでも「罪と罰」「白痴(はくち)」「カラマーゾフの兄弟」などとともに、もっとも傑作とされるものであるが、この小説はドストエフスキーが1869年に起こった「ネチャーエフ事件」にショックを受けて書いたものである。

ネチャーエフ事件というのは、ペテルブルグ大学の聴講生だったネチャーエフが、「人民の裁き」という秘密結社を組織し、現存社会の転覆を肩てていたが、同志の一人であるモスクワのペトロフスキー農業大学に籍を置いていたイフノフが脱退を申し出た時、密告の恐れありとして惨殺した事件をいうのである。この殺されたイワノフがドストエフスキーの夫人、アンナの弟の友人であり、この義弟の口からドストエフスキーはネチャーエフのことを聞き、創作意欲が起こったというのである。

今回のオウム真理教事件はネチャーエフ事件より事件の規模は比較にならないほど大きい。しかしオウム真理教事件でも麻原教祖は仲間の一人を殺したということがすでに明らかになっている。事件の大きさとその残虐性(ざんぎゃくせい)においてオウム真理教事件はネチャーエフ事件の比ではないが、しかしその思想について類似性がある。それはネチャーエフがこの現存の社会を悪と考え、その社会の転覆を意図し、そのためには殺人も辞せずと考えている点である。

このネチャーエフ事件をテーマにしたドストエフスキーの『悪霊』において、ネチャーエフにあたるのは、ステパン・トローフィ・モヴィッチ・ヴェルホーヴェンスキーの息子、作中ではピョートルと呼ばれる人物であろう。この人物が外国から新しい思想を携えて帰り、五人組を組織し、そして密告の恐れありとして仲間を、ちょうどネチャーエフ事件と同じように暗い夜の公園で殺すのである。このピョートルこそ外国から革命思想を移入し、この地に反乱を起こし、現存の社会制度を転覆しようとする、まさにレーニンの先駆者といってもよい人物である。

ドストエフスキーがこの小説を書いたのは1871年から72年にかけてであった。それから45年後、1917年に、もちろん革命家としてこの小説に書かれたピョートルよりははるかに優れた革命家であったか、ピョートルと同じ思想・・・社会に対して深い憎悪をもち、この社会を悪と考え、この社会を転覆することが歴史の使命と考え、そのためにはいかなる悪を犯してもかまわない・・・の持ち主のレーニンによってロシア革命が起こされたのである。

オウム真理教事件はネチャーエフ事件、および「悪霊」に書かれたピョートル事件と比べれば、はるかに規模は大きいが、ロシア革命と比べればまだまだ規模は小さい。考えようによっては、麻原がレーニンほど優れた革命家ではなく、オウム真理教の宗教理論がマルクスの理論ほどの一貫性をもたず、そのためにその信奉者も比較的少数に止まったのは不幸中の幸いと言わねばなるまい。

「悪霊」という小説の筋は簡単である。一般にドストエフスキーの小説はバルザックやトルストイの小説がもつような波瀾万丈のストーリーはない。劇の筋はむしろ単純で、そこで経過する時間はあまりに短い。しかし彼はその短い時間に起こった事件のことを綿々と語るのである。ドストエフスキーは一人ひとりの人間の内面に執拗に食らいつき、そしてその人間がどのような境遇に生まれ、どのような過去をもったかということを克明に語るのである。そしてドストエフスキーの目は一人ひとりの人間の心の奥に隠れている深い闇を見つめるのである。

一人ひとりの人間は心のなかに自尊心と屈辱とを秘めているのである。そしてこの自尊心と屈辱を秘めた人間が互いの利害の上にある関係を結ぶが、その関係はまさに不安定なものである。ドストエフスキーの小説では、こういう心のなかに巨大な闇や矛盾をもった人間が愛し合い、憎み合いながら狂わしい事件を次々と起こしていく。旧制高等学校の時代に、このドストエフスキーの小説を読んで、それ以来ドストエフスキーの小説の熱烈なる愛読者になった。人間とはどのようなものであるかをドストエフスキーに教おったと言える。ドストエフスキーから学んだのは私一人ではない。

かの十九世紀最大の哲学者と考えられるフリードリッヒ・ニーチエもこのドストエフスキーの小説を愛読し、彼は人間がルサンチマンの動物であることをドストエフスキーから学んだという意味のことを言っている。ルサンチマンというのは隠された怨恨とでも言ったらよいかと思う。多くの人間の心にはこのようなルサンチマン、すなわち隠された怨恨があり、それがしばしば巨大な思想を生んだり、大きな歴史的事件を引き起こしたりするのである。

ニーチェはキリスト教もかかるルサンチマンの産物と考えているか、ドストエフスキーの得意なのは、屈辱に満ち、汚辱にまみれた生活を送りながら、なお心のどこかに高い誇りをもち、その誇りが深いルサンチマンと表裏一体となっている複雑な人間を描くことであろう。こういう人間の心理描写にドストエフスキーは比類のない腕を振るうので、かえって事件の筋が曖昧になることすらあるのである。

この「悪霊」も筋らしい筋はほとんどないと言える。これはスクヴォレーシニキというロシアの小都会に起こった出来事であるが、そこにワルワーラという脚気(かっけ)持ちの婦人が住んでいた。それはある陸軍中将の夫人である。裕福な商人の娘で、彼女自身がかなりの土地と財産をもっているのである。その将軍とは生前から別居をしていたのであるが、彼女は自分の一人息子、スタヴローギンのために一人の家庭教師を雇う。その家庭教師がドナフ・ステパン・トローフィーモヴィッチ・ヴェルホ・ヴェンスキーというピョートルの父親なのである。

このステパンは、かつて進歩的思想の持ち主として一時代のロシアの思想界を風靡(ふうび)した。そしてロシアの大学でも教授の職をもっていたが、彼の思想の急進性のために大学を追われた。このかつては華やかな社会的名声を博し、今は職もないステパンにワルワーラ夫人は目をつけ、可愛い一人息子スタヴローギンの家庭教師として、夫人の家に住まわせたのである。ステパンはその後は何も書かずに、夫人には傑作をつくるっくると言いながら怠慢な日をおくり、名目はスタヴローギンの家庭教師として、実際はワルワーラ夫人の男妾(だんしょう)の地位に安住していたのである。

この町にはワルワーラ夫人とステパンを中心にして一つのサークルがつくられるが、そのサークルは文学的、かつ進歩的なサークルであり、多少危険な色彩をもっていたが、それもワルワーラ夫人の財力と社交性によって大目にみられていたのである。こういうところへピョートルとスタヴローギンが帰ってくるのである。ピョートルは一方で新しい県知事夫人と親交を結び、このスクヴォレーシニキの政治を支配するが、同時に密かに現存社会を転覆する使命をもった五人組を組織するのである。

事件はこの県知事夫人か主催する文学パーティの席で起こった。夫人がこのパーティの相談者としてだれよりも頼りにしていたピョートルがこのパーティに参加せず、このパーティを目茶苦茶にしたのである。そしてその日、このスクヴォレーシニキの町のところどころに五人組が来て放火を起こさせ、そしてまた殺人を行なわせ、またそういう事件を密告する恐れありとして仲間の一人を惨殺するのである。この小説ではピョートルはこのような事件を起こして、外国へ逃亡することになっている。

だいたい小説の筋はそのようなものであるが、ここでどうしても言っておかなくてはならないことがある。それはドストエフスキーと最初この小説の主人公として設定したピョートルという男より、本来この小説の脇役の一人にすぎなかったと思われる人物に異常な興味をもち、この人物にのめり込んでいったことである。これは多少劇や小説を書いた経験のある私にはよくわかることであるが、劇や小説を書いているうちに、最初主人公にしようとした人物にあまり興味がもてず、脇役の一人にすぎなかったような人物にむしろ興味が移っていき、そちらの人間に自己を一体化し、その結果その人物の描写に力か籠(こも)るということがしばしばある。

ドストエフスキーもどうやらこの小説を書いていくうちに、ピョートルという人間にあまり興味をもてず、かえってその事件の脇役にすぎなかった人間、スタヴローギンという人物に異常な興味をもちはじめたらしい。これはまともな小説家としては当然のことではないかと思うのである。なぜならこの社会に対して深い憎悪をもち、この社会を転覆するためには手段を選ばず、放火も殺人もかまわないと考えて、しかもいささかの良心の痛みも感じない、そういう革命家に小説家としてのドストエフスキーか親しみをもてなかったのは当然である。それで彼はピョートルという人間をわりにすげなく書き、かえってスタヴローギンに深入りしていくのである。

スタヴローギンというのは例の将軍とワルワーラ夫人の子であり、子どもの時からステパンについて教育を受け、のちに、ペテルブルグや、あるいはスイスに留学し、これまたピョートルのごとく無神論的革命思想の洗礼を受けて帰ってくるのである。彼は無神論者であるステパンに教育されたのであり、ピョートルと同じく無神論者であるが、彼は誠実にこの無神論の帰結を実行し、しかもその帰結に対し高邁(こうまい)な良心でもって悩むのである。

神を信じなければ道徳というものはありえず、いかなる卑劣なことをしてもかまわない、こういう哲学的命題を彼ははっきり自覚し、それを大胆にも実行に移すのである。そのために少し精神がおかしいびっこの無知な女と結婚し、そして多くの女と情交を重ねるのである。そしてスクヴォレーシニキに帰っても、初めは彼はワルワーラ夫人の一人息子であり、外国に留学した知識人として大いにもて囃(はや)されるが、突然わけのわからない醜悪な行動を、何の理由もなく、何の感情もなく起こすのである。

これはピョートルの思想とは同じ無神論から出発しなから、結論はまったくちがうのである。ピョートルは神を信じている今の社会を転覆する、その行動は絶対の善であり、そのためには何をしてもかまわないと考えるわけであるが、そこには誠実な苦悩なるものがまったく欠けているのである。しかしスタヴロ-ギンはその逆であり、彼は意識的に汚辱に満ちた行為を行なうわけであるか、その心に大きな誇りをもち、他人の痛みを痛みと感じ、自己を責める気持ちを、もちすぎるほどもっているのである。

つまり彼はどこかで旧(ふる)い道徳を保持しつつ、しかもこの無神論の結論と思われる道徳の否定を行ない、それによって、深い罪の呵責(かしゃく)を覚えるのである。この罪の呵責は、あの「罪と罰」でドストエフスキーが描いた金持ちの、まったくろくでなしの老婆を殺害したラスコーリニコフと共通であり、この罪の意識こそドストエフスキーは人聞か人間である所以であると考えていたようである。

ドストエフスキーの華麗な筆致にもかかわらず、このスタヴローギンという人間はよくわからない。この汚辱に満ちた行為と高邁な志という矛盾きわまるスタヴローギンという人間をじゅうぶん納得的に理解することは困難であると、私は思う。その意味でこのスタヴローギンという人物像の創造においてドストエフスキーの「悪霊」は失敗作であると思う。なおこの小説には自殺をもって人間の最高の自由の斟と考えているキリーロフなる人間が登場するが、このスタヴローギンの影のような人間で、キリーロフにはスタヴローギンよりいっそう人間の血肉は通っていない。

ドストエフスキーの最後の小説である「カラマーゾフの兄弟」でも、「悪霊」で取り扱った問題と同じような問題をドストエフスキーは取り扱っている。それはやはり神があるかないかという問題である。地主のフョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフという男に三人の子どもがあった。長男かドミートリイで、次男がイワンで、三男がアレクセイ(アリョーシャ)である。長男はたいへん衝動的な人間で、色欲に襲われると、どうすることもできないような性質をもっているが、その心根は純真であり、嘘の言えない人間である。そして次男イフンは大学で哲学や神学を学び、非常に頭のよい人間であるが、無神論者である。三男のアリョーシャは子どもの時から敬虔(けいけん)なロシア正教の信仰をもち、天性の宗教者である。

ある日フョードルはこの三人のカラマーゾフの兄弟に神があるかないかを問う。その時イワンは神はないと言い、アリョーシャは神はあると言う。イワンは神はなく、したがって宗教というものは人間のつくったいかがわしいものだと考えるわけであるが、もし神がないとしたら道徳もなく、道徳がなくなったら何をしてもかまわないということになる。そして、いかなる悪も許されるとしたならば、悪のなかの最大の悪である親殺しも許されると考える。イワンを崇拝するスメルジャコフ・・・じつはこの男はフョードルと女乞食の間にできた子どもであるらしく、とすればイワンの異母弟になる・・・は、このイワンの哲学的な結論にたいへん興味をもち、彼の父であると思われるフョードルを殺す。

ところがこの時ドミートリイがフョードルとの間に一人の女を巡って争いを起こしていた。フョードルを殺してやると言って、フョードルの家を訪れたので、ドミートリイが殺人者として検挙されるのである。ちょうどイワンは留守にしていたが、家に帰って事件後癲癇(てんかん)を起こして寝ていたスメルジャコフに会い、その事件はイワンの言葉に暗示されたスメルジャコフの起こした事件であることを知るのである。そしてイワンは彼の無神論が引き起こしたこの間接の殺人事件に大いに悩んで、法廷ではそれを打ち明けるが、彼の話は狂人の言葉として相手にされず、ドミートリイは犯人とされ、シベリアへ送られるのである。

「悪霊」のスタヴローギンは「カラマーゾフの兄弟」ではイワンになるわけであろうが、イワンの思想と感情はよく理解されるが、スタヴローギンのほうはいま一つわからない。やはりこの無神論者のニヒリストを描くという点で「悪霊」は「カラマーゾフの兄弟」に劣るのではないかと思われる。

「悪霊」の主人公はやはりピョートルであり、むしろこの小説でいちばんよく描けているのはピョートルの父ステパンであり、その愛人であるワルワーラ夫人であると思う。ドストエフスキーはここでステパンという、その思想においては進歩主義、自由主義、さらには無神論者でありながら、その生活においてはまさに農奴制(のうどせい)の上にあぐらをかく地主の夫人に養われるという、この矛盾きわまる何も信じない知識人ステパンからまさに二人の無神論者が出てきたことを語ろうとしているのであろう。

一人は、無神論の帰結として宗教の力によって統治されている現存社会の否定を志し、そしてそれを転覆させるためには殺人も辞せずという思想をもっ人間であり、もう一人は、無神論の帰結として神を信心ず、神を信じなかったらいかなる悪も許される、という哲学的結論の結果として大胆な道徳否定を行ない、醜悪きわまる行為を起こすが、それでも高潔な志を失わず、そしてその自ら犯した罪に誠実に悩む誇り高き魂の人間である。

ピョートルは事実ステパンの子であるが、スタヴローギンもまたステパンによって教育され、彼の無神論を引き継いでいるわけであるが、彼は将軍の父、および母から高潔な心を受け継ぎ、その汚辱に満ちた行動と、その高潔な心の矛盾に深い苦悩を覚える人間なのである。ドストエフスキーは、この小説でピョートルという人間はたしかに新しい人間であり、これからおそらくロシアにもこのような人間か増えてくるであろうと思うが、そのような人間はどうして生まれたかを執念深く追求したのであろう。

— posted by St.Mac at 02:34 pm