戦後教育がサリン事件を引き起こした

戦後の日本の教育は、もっぱら日本を科学技術の発展した豊かな経済国家にしようとする方針で行なわれたのである。そこでは教育の理念というものをまったく失っていたと言ってよい。たとえば、戦後教育は、平和と民主主義の教育といってよいかもしれないが、平和と民主主義というだけでは、なんら確固とした道徳にはならない。それは、ただ、人間がおとなしく、他の人間と協調してやっていく、それが善であると教えるのである。それではまったく道徳について、心について何も教えないのと同じである。

そして、戦後の男性は、自分が生きていくための確固たる道徳をもたなかったように思われる。それで家庭教育はおもに母親にまかせられる。母親は、わが子がかわいくて、わが子がよい大学に入り、よい会社に入ることのみを望む。このようにして道徳についても、心についても何も教えられることなく、ただ彼らは、受験戦争に勝ち抜く知恵のみを教えられるのである。

オウム真理教の幹部となった人たちの多くは自然科学畑の出身者である。麻原が宗教について自分より知識があるかもしれない文科系の人たちを敬遠し、宗教に対してほとんど知識がないと思われる理科系の人を重用したのはけっして理由のないことではないが、彼の教義が結局、現実社会の徹底的否定にあり、その破壊にあるとしたならば、サリンなどの製造に有効な知識を与える科学技術者が重宝されるのは当たり前である。

そして彼らは宗教についてまったく知識をもたず、この幼稚とも思われる麻原の理論に唯々(いい)として従ってしまったのである・少しでも宗教の知識があればオウム真理教の教義に疑問をもつにちがいない。自然科学においてのあれほど精密な思弁を展開できる彼らが、宗教についてあれほど幼稚な理論にひっかかったのは、ほとんど信じられないが、これかまさに戦後教育なのである。

何よりも驚愕するのは、そういうエリート中のエリートがサリン製造に関わったばかりか、地下鉄でサリンを撒いて犯罪者になったことである。その場合になんらかの道徳的抑制がはたらかなかったのだろうか。彼らに道徳的抑制かはたらかなかったとしたならば、彼らが長い間受けてきた教育とは何であろうか。

ここにきてわれわれは、教育ということを根本的に考え直す必要に迫られている。ピョートルもやはり、宗教も道徳も信じない、あのステパンの教育の産物であった。われわれの戦後の社会にはステパン氏に似た評論家が大手を振って歩き、無責任な言説を垂れ流したのである。そのいわば心の教育の不在がこのような青年を生み、あのような事件を起こしたといえる。これは日本人の心の危機である。ここで今日の教育のあり方について考え直さなければならない。

— posted by St.Mac at 03:55 pm